ライオンズクラブにまつわる

エピソード〈3〉



アフリカへ米を贈った話

故佐藤貞夫元ガバナー(地区年次大会委員長・名誉顧問)
宇都宮西LC のお話

 ひとりのカメラマンがアフリカの飢餓の惨状をカメラに収めてきた。 土門拳賞を受けた三留理男である。彼の写真には、草木は枯れ、家畜は死に絶え、腹だけが異常に膨れた骨と皮ばかりの子供が写っていた。その彼は言う。「これは人災です。ぼくらの手で助けられる」 この写真を見た足利ライオンズクラブの一会員は大きな衝撃を受けた。何とかできないかと、クラブ理事会、例会にはかったところ「米の余っている日本人は、この子らを救う人道的義務がある」と衆議一決した。 

 早速ケニア大使館や当時の農林水産、通産、大蔵各省との交渉が始まったのだが様々な壁が立ちはだかった。食管法上政府米の払下、輸出はできるのか、輸送の費用は、陸揚げした後の保管やその後の輸送はどうするのか、精米機はあるのか。確実に現地人に渡るのか。疑問と難関は次から次へと現れ、そのたびに会員の粘り強い努力と善意の人々の協力によって一つ一つ解決されていった。食糧庁は10トン単位での放出を認めてくれた。輸送は総合商社トーネンがトン当り1万円という犠牲的奉仕で強力してくれることになった。現地の手配は北ナイロビライオンズクラブが引き受けてくれた。遂に壁は破れたのである。

 このことを伝え聞いた全国各地の人達から続々と共鳴の基金が寄せられ始めた。昭和56年11月10日、足利市民プラザで足利ライオンズクラブ20周年記念式典が行われ、記念事業として、ケニアに救援金1万ドルと米100トンを贈ることが発表された。式典にはオニヨン駐日ケニア大使が出席され、基金で井戸が掘れたという感謝の報告が寄せられた。 そして、昭和57年5月、厚さ10センチにもなる膨大な書類審査が終了して、横浜港から10トンの米がケニアに向けて出港した。不可能と思われた「我々の手でアフリカに米を」との悲願は遂に実現をみたのである。

 足利クラブの、飢えた子らの命を救いたいという人類愛と奉仕への情熱が、遂に道を拓いたのである。 ケニア共和国モイ大統領が国賓として日本を訪れた際、赤坂迎賓館で大統領主催の晩餐会が開かれた。天皇、皇族方をはじめ鈴木総理、各国大使らへの招待状の中に、足利クラブへの招待状が含まれていた。足利クラブの壮挙に対し、モイ大統領から直々に感謝を表したいので出席されたいというのである。 クラブを代理して当時ガバナーであった私が出席することになった。天皇(昭和)と並んでお立ちになる大統領に謁見したとき、大統領は 「おお、ライオンズクラブ」 と、その真黒な大きい手で私の黄色い手を固く握られた。